ベトナム戦争当時、戦時下のベトナム戦域では、MATS傘下の救難飛行隊が多くの分遣隊をタイや南ベトナムに展開し、HH-43B/Fヘリを主力として運用していた。しかし、南北ベトナムとラオス、カンボジア、タイに至る広大なエリアで、敵前からパイロットを救い出すと言うコンバット・レスキューでは、次第に足が長く、重武装の大型ヘリが求められるようになり、シコルシキー社のSH-3を大型化したCH-3に白羽の矢が立ったのである。最初にCH-3Cを受領したのはタイのなコーン・パノム空軍基地の第38救難飛行隊の第一分遣隊で、その後ウドンの第4分遣隊、ビエンホアの第6分遣隊、ダナンの第7分遣隊などが次々にHH-3Eに機種更新して行った。これらの部隊は、東南アジアの戦域を縦横無尽に駆け回り、多くの被撃墜パイロットや戦友の救助で活躍し、その功績から頼りになる緑の巨人と呼ばれるようになったのである。
HH-3E 67th ARRS / Woodbrige AB
1952年にイギリス スカルソープで創設された救難飛行隊であるが、一度閉隊された後1966年再びブレストウッドで再開され、カマン社のHH-43ハスキーヘリと HC-130Pを運用する本格的な救難部隊として蘇った。スペインの基地へ移動後、再びイギリスのウッドブリッジ空軍基地へ戻り、1969年から1971年の間 HH-3Eを運用していた。現在もミンデンホール空軍基地でMC-130Jを運用する特殊作戦部隊として活躍している。
1970年7月にウッドブリッジ空軍基地で撮影されたHH-3E/67-14716。この機体は、1979年にレイキャビックの北で救難活動の際、事故で失われている。機体は全損したが、幸いなことに死亡者は居なかった模様。
↑ 1983年7月朝鮮半島のオーサン空軍基地で撮影されたHH-3E/65-2799。この飛行隊がオーサン空軍基地を去って以降、オーサンには沖縄の第33空中救難飛行隊の第1分遣隊が派遣されるようになった。
HH-3E 374th OMS ?/ Clark AB
1976年11月のクラーク基地で撮影された機体であるが、機体に書かれたインシグニアが、MAC傘下の第374輸送航空団の物であり、当時のクラークの救難を担っていた部隊であるとは思うが、詳細は不明。ご存知の方は、ご教授頂ければ幸いであります。クラークには1975年以前と1980年以降 31st ARSのHH-3Eが配備されているが、その間この部隊がカバーしていたのか・・・不明である。、
第38救難飛行隊は、1952年11月に極東軍司令部の下に創設された部隊で、当初は三沢基地を拠点にしていた。その後南ベトナム戦域に派遣された。MATS傘下で本部をタンソンユニット空軍基地に置き、14個もの分遣隊を各地に配置して、南北ベトナムだけでなく、カンボジアからラオスまで広い地域の救助任務を担当していた。各分遣隊の主力はカマン社HH-43B/Fヘリだった。1965年最初の2機のCH-3Cを受領したが、同年11月に63-9685が撃墜されている。1966年からは、幾つかの分遣隊でHH-3Eを運用始めている。ベトナム戦終了後飛行隊は、機材を他の部隊に譲り、一度ペーパースコードロンとなっていたが、1976年に本国のホームステッド空軍基地で再び活動を始めた。1981年1月から朝鮮半島のオーサン空軍基地に移動し、1996年までの16年程ここを拠点にしていた救難部隊である。朝鮮半島を離れた後は再びアメリカ本国のムーディー空軍基地へ移動している。オーサンでHH-3Eを使用してた期間は、1981年から1990年までの10年間に渡っている。
1970年7月にウッドブリッジ空軍基地で撮影されたHH-3E/67-14717。これらの機体の他、HH-3E/67-14715と66-13285も此処を拠点にしていたようである。
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↑ 1982年6月朝鮮半島のオーサン空軍基地で撮影されたHH-3E/67-14709。この頃はまだベトナム迷彩の魅力的フォルムである。
HH-3E 38th ARS / Osan AB
↑ 1976年11月 フィリピンのクラーク空軍基地で撮影されたHH-3E/67-14724。同隊には、MACのインシグニアと第374空輸航空団のマークが入っている。背景にある格納庫にはグリーンジャイアンツの立像が掲げてあるので、このヘリの格納庫と思われる。この機体は、PACAFの33rd ARRS所属に変更され、1990年代も分遣隊でクラークにいたが、その後デービスモンサン空軍基地の71st SOSへ移管され、デザートスキームカラーに塗り替えられた。
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